「、、人生なんてしょせん暇つぶしでしょ」
斜に構えた中学生だけではない、年齢問わず100人あつまれば5人ぐらいがいいそうな格言である。人生論はよしあし、別に否定するつもりはない。ましてや同意する部分もある。もう一度いう。「人生なんてしょせん暇つぶしでしょ」。うーむ、なかなか洒落たいいまわしだ
では、その暇つぶしの人生をいかに過ごそうかという話になる。やはり重要なのはその人の趣味だと思う。「趣味(しゅみ)」。おもむき(趣き)を味わう。仕事のようにお金のためにやるというニュアンスはない。家族行事のように道徳観による義務が伴うようなニュアンスもない。嫌いならやめていい。それが趣味である。趣味はなんですか?という質問が齢を追うごとに力を増してくるのは、理由がある。齢を追うごとに縛られるものが増えてしまうという現実があるからだ。「趣味」という言葉をありがたがり、崇拝すらしてしまう文化が生まれればもっと楽しい世界が待っているような気がしないでもない。
No.1は読書、No.2は投資で決定
趣味は当然人それぞれである。それは十分承知している。何といっても誰かに言われてやるものではない。だがしかし!いいたい。いいたいのである。だから言おう。
1番は読書、そして2番は投資と決めようではないか。
これらは人生を通して行える偉大な趣味である。
よい趣味がもっている素養はなにか、考えてみる。まず「奥が深い」ことだろう。浅すぎるとすぐに飽きてしまう。だからある程度の深さが必要なのである。そして「浅くても楽しめる」ことである。深いだけではダメだ。入門には入門の楽しみがあることが大変好ましい。じゃないとすぐに飽きてしまう。徐々に深みがましていき、その都度いろんな楽しみがあるのである。
そして大事なのが「生きるのに役立つ」ではないだろうか。
こういうと、おいおいそれをいっちゃあお終いよ、それは趣味のポリシーに反するで、と思われることだろう。だがしかし、そもそも人それぞれであるべき趣味に「おすすめ」してしまおう、という無碍な話をしようとしているのである。そこは容赦いただきたい。思うに、役立つというのは、継続への心強い土台になる。だから続けられるし、だから面白い(と感じる)のである。金のかかっていないギャンブルよりも、金がかかったギャンブルが数倍おもしろいのも同じ理由からだと思う。現実感が別の扉を開けてくれるのである。
(本音でいえば、人生の役に立たない、むしろ、足を引っ張るであろう趣味を継続できる人は本当に尊敬に値すると思う。人類の生きる希望である。そのような人がいないと世界はつまらないし、広がらない。開拓してくれる人がいたからあとに人が続くのである)
なぜ投資がいいのか?
そろそろ、その話をしたいと思う。が、ここまできてわたしの指がキーボードを奏でるのをストップする。どこから、なにから、うーむ、、、。
1,奥が深い
投資の奥深さはいわずもがなであると信じたい。まず、世界の億万長者はスポーツ選手でも一流企業の経営者でもない。投資家である(一部の創業者がなぜ富豪になるかというと企業の株式を保有するからである。経営者としての給料も桁違いだが本質はというと投資家であることにある)。トップは投資家であるという事実がある。また目指すための条件はない。学歴、ライセンスは不要だ。フェアな世界なのである。社会の重要な役割の1つであり、高度な知的労働でもある。
といったことはもはや前座である。このようなことは巷にあふれる本をみていただければ腐るほど情報がでてくる。わたしがいいたいのは、「経済」と「論理」と「心理」の3本柱が祭りの神輿となっているところである。これでおもしろくならないわけがない。
勇気を出して説明してみよう。投資の前提は経済である。経済(社会)活動の一環に投資がある。わたしたちが生きている社会の話である。当たり前だがフィクションではない。その上に論理が組み込まれる。A=B、B=CだからA=Cである。分析された論理ができる。ただ、これだけでも決まらない。人が関わっているからである。相手も人なのである。人の心を知る必要もある。
2,浅くても楽しめる
そう、簡単に楽しめる。始めたばかりの人には、始めたばかりの人なりの楽しみがある。すごく勉強した人が必ず勝つとおもいきや、そうはならない。猿にダーツで決めさせた株式(銘柄)が著名なファンドマネージャーの成績を上回るという話がある。そういうことも起こるわけである。細かく理由を説明するほど無粋なことはしない。興味があれば調べてみて欲しい。そして上がった、下がった、または上がりそう、下がりそうは、とてもシンプルである。
3,生きるのに役に立つ
わたしは本気で取り組む意味があると思っている。もちろん若いうちから投資、というよりも金融リテラシーをもつことは重要である。大きな差がでる。想像がつくかとおもう。
また投資は死ぬまで一生続けられるという点がとても重要である。持論ではあるが、老後生活で重要なことは社会活動を担い続けることだと思っている。農作物でもいい、ビルの管理人でもいい、不動産オーナーでもいい、社会活動を担うことが生きるということである。根本はそこだと思う。そう考えたとき強力な右腕のひとつになるのが投資である。資金を回すのである。いくべきところに資金を回し、いくべきではないところから資金を引き上げる。そうやって社会活動に参加するのである。体力ではない、流行り廃りではない、高度な知的労働として担うのである。そうやって、その付加価値としてお金が得られる、と考えられる。これができるようになっているか、できないままか、では結果が全く違ってくる。
4,答えがないから話が尽きない
これである。投資仲間と話が尽きないのである。世の中が動き続けるかぎり、投資話も終わりがない。壮大なストーリーとなって惹きつけてくれるのである。答えがないというテーマがいかに大事なことか。わたしたちは一生このテーマを酒の肴にできるのである。
終わりに
どうしよう。久しぶりに長めの文章を書いてしまった。ただし正直、思いをだしきれた気はしていない。60%ぐらいだろうか。少しでも伝われば幸いである。
というわけで、投資の話をする仲間がほしい。趣味として一緒にワイワイやれる人いませんか、もしくはどうやったら出会えますか?楽しむことを第一条件に設定できる人がいいな。儲けるというのも1つのスパイスよね、程度に考えながらできる人がいい。コメント欄、問い合わせ、SNS何でも結構です。連絡いただけたら幸いです。
ちなみに投資といっても幅が広い。広すぎる。メインは証券(取引所で取引できるもの)で考えたい。
おしまい。
証券投資のおもしろさに気付かされたのは証券アナリストの勉強をしたときからのような気がする。特に財務分析はわたしの性格にもあっていた。最初のステップとしては少しハードルが高い気もするが独学でもいける。とりあえず。