そんな違和感をおぼえることはないだろうか。
いちおう、わたしは子どもが好きだと自覚している。常に最高記録を更新しつづけるほど好きだ。こんなにはっきり自分の感情がわかることが珍しいぐらい好きだ。この言葉で不十分だと確信するぐらい好きだ。カケルは10年、サクラは5年ほどの付き合いになるが、いまが一番好きだ。このあふれる気持ちを、ちゃんと子どもたちに伝えられているか、不安になるときがある。せつない。
でも、顔が思いだないときがあるのである。なんとなくあいまいなのである。本当に好き?なのだろうか。体に馴染んでいない気がする。これはなんだろうか。あら?どんな顔だったかしら、とふと思う。顔がぼやけている。だから一度ちゃんと似顔絵を書きたいとは思っている。
熟睡後に起きたときには顕著である。起きたあとに、あれ?子どももいて、一緒に生活してるんだったよね、、という読み込みが発生する。われながらエー、、、である。これだけ一緒に生活して気持ちがあっても「当たり前」にはなっていないのだろう。
わたしは異端児なのだろうか。おしえて欲しい。もしあなたに子どもがいるなら、今、我が子の顔をどのくら明確にイメージできるか試してみてほしい。いかがだろう。
ワイフ曰く、ウォドルフ的には、この年齢ぐらいの子どもは言葉通り存在が薄いらしい(というようなことを言っていた気がする)。これから存在がはっきりしてくるから、というのはあるらしい。
だがしかし、わたしはおもう。これは、もしかすると、血縁者ではあっても、体の一部にはならないことをわたしは潜在的に意識してしまっている現れではなかろうか。血縁者という濃いつながりがあったとしても、ずっと一緒には居られないのである。子どもと一緒に過ごせる時間はわずかで、やっぱり好きなもの、でしかないのである。自分のものにはならない。二人とも年齢がすすめばあっという間にわたしの手の届かないところへいってしまう。サクラなんてケ、ケッコ、、、、
これ以上はやめておこう。むやみに自分を傷つけるいわれはない。
そう考えてみると、熟睡後にワイフの存在を読み込む時間は、ない。読み込まなくても隣にいることを受け入れているのであろう。もちろん過ごした時間のながさもあるとはおもう。結婚10年、付き合っていた期間も合わせると17年以上だ。これがながいのかまだ短いのか人それぞれだろうが、子どもと過ごした時間に比べらればながい。よいか悪いかはよくわからないけど、わたしという大きな存在の一部になっているんだろうとは思う。いろんな経験やチャレンジを一緒にしてきて、一番いろんな話をしてきて、いつも一緒だったしこれからもそうだろうと思っている。(もちろん、よい結婚生活自体が綱渡りのように危ういもので、二人の努力と思いやりの結晶であると思っている、そしてそれに見合うぐらい輝かしい)
いやいや、話をもどそう。わたしは、
・子どもは好きだけど
・好きなわりに、どこか距離感があって
・それは、一生続くものなのかな、
と思っている、ということである。
「絶対に手に入れられない大好きなもの」、それが我が子ではなかろうかと思うのだろうがいかがだろうか。せつない。
おしまい
それでもいい、それでもいいと思える恋だった♫
いまでもたまに聞くという、これは別の人のバージョンですが。音楽はやめられない。
この叶わぬ恋はどこへ向かっていくのだろうか。せつない。