最近虫でてきましたね~。
僕の部屋なんですがクーラーがなくて、そのため窓全開で、そして蚊取り線香もんもんです。
それでも蚊に喰われ痒くて目さめるってことも多々ありますが。
虫は絶対ダメ!!って人もよく聞くんですが、正直僕は自分の血を吸った蚊ですら殺してやろうと思ったことはありません。
(蚊取り線香で殺しているだろ!って話はおいといて)
加えていうならば浴室なんかで思わずその羽を水につけ溺れかけてしまっているような虫に対して、救いの手を差しのべてしまうほどの虫愛好家です。
いや、好きってわけではないから愛好家は嘘ですね。
別にいい子ぶってるつもりはないんですよ。
ま~皆が嫌いな虫を僕はそんなに拒絶しないといった所でしょうかね。
この前高速道路で金沢へ向かってる時の話です。
5cmほどのモスラが僕の車のフロントガラスでその一生を終えました。
それこそ(汚い話ですが)無残に黄色の液体をぶちまけて、原型を留めようとはせずにガラスに張り付いていました。そう、大げさじゃなく僕の目の前で。
これはなかなかできる体験ではないですよ~
そのとき僕はすぐ車を止めることもせず、少しだけ、そう30分ほどそのモスラの死に付き合わされてしまったんですよ。
これはつまり30分間(拒絶するまではいかない)生物の死と対峙したわけです。
そういうことってありますか?
壱生物の死が目の前に張り付いているわけですよ。
(わかりずらい人はモスラを犬猫あたりで補完可)
(蟻など生物としての死を認識しずらいものは却下)
僕は、海月という人間は、不快感で心がいっぱいでした。
それは目の前の無残な死という状態に対してです。
僕がわかる感情で表現すれば
睡魔に襲われながらも寝ることを許されないイライラと、
何を忘れているのかわからないときのモドカシサを足したような感情でしたね。
そこでさらに考えてみました。
なぜこの感情が生まれるのか、
この感情が示すものは何なのかと。
僕は、人間の本質は(行き着くとこ)利己的な無関心なんじゃないかなと思っています。
行き着くところですよ。
人間の行動は、自分の利益(心が満たされるということも含めて)が一番であり、それ以外には何もないということです。
でもそれじゃ人類が生き永らえることはないので、生存のためのルールとして道徳とかモラルといったものが後付けで生まれ伝承によって心に植えつけられているのかなと考えています。
(なぜそう思うかってのは省きますがね・・)
そういう意味からいうと、この感情は恐らく殺人を抑制するために植えつけられた死を嫌う感情の派生したものといえるのでしょうか?
その先は3ヶ月ほど本棚で眠っている養老孟司の「死の壁」でも読んで考えてみようかなと思っています。
また報告するかしないかはわかりません
他の死に対し抱いた感情が死への理解へつながることは明白ですよね。
そして死は誰も逃れることもできず、死を考えることが生を見出すことだと思います。
(※そうそう、一リットルの涙には泣かされましたわ)
<P.S>
最近姉ちゃんが一つの生命をこの世の中に誕生させました。
それを知ったときのカオが綻ぶ心が温まる感情は人間の本質であってほしいと思ったりするわけです。
この場を使って改めて、
「ベイビー誕生おめでと~う!!!!!!!(TдT) アリガトウ」
海月
やっとみつけた!
元気そうでなにより(@ε@)
更新その他もろもろがんばるように!!!