ご存知でしたか?わたくし今39歳らしいのです。信じられません。がびーーん。
「守破離」とは
もとは千利休の訓をまとめた『利休道歌』にある、「規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」を引用したものとされている。
修業に際して、まずは師匠から教わった型を徹底的に「守る」ところから修業が始まる。師匠の教えに従って修業・鍛錬を積みその型を身につけた者は、師匠の型はもちろん他流派の型なども含めそれらと自分とを照らし合わせて研究することにより、自分に合ったより良いと思われる型を模索し試すことで既存の型を「破る」ことができるようになる。さらに鍛錬・修業を重ね、かつて教わった師匠の型と自分自身で見出した型の双方に精通しその上に立脚した個人は、自分自身とその技についてよく理解しているため既存の型に囚われることなく、言わば型から「離れ」て自在となることができる。このようにして新たな流派が生まれるのである。出所:wikipedia
言葉が示すとおり、まずは基本、次に応用、そして自己流へという段階が大事であると。「本を忘るな」とは、いつまでも基本を忘れてはいけないよ、という言葉です。
転じて、スキルの獲得の順番や考え方は、この「守破離」がよいとされています。
この言葉を知ったのは、学生を終えて社会にでて間もない頃とは思いますが、今でも度々「ああ、守破離がやっぱりいいんだな」という場面に出くわすことがあるのです。
本当に何でも。ビジネススキル、スポーツ、料理、子育て、読書、学業、何でも。自分でいうのも何ですが、これを意識できているかで、習得のスピード、モチベーションも変わってくると思うんですよね。
ちなみに、これは考え方のお話です。
「守」からはじめる
本当によく出くわすのは「破(2番目)」や「離(3番目)」からはじめて失敗するケースです。これは、むしろ注意していくようお願いしたい。
だいたいですね、セミナーなんかで、初級・中級・上級とあると、多くの初心者が中級から受けることがあるらしいのです。まあ、わかる。得てして「基本」はつまらないのです。そして人は常に自分を過大評価します。
なにかの利益(ベネフィット)を得るために学びをはじめるわけですが、利益へ直結するのは最初の「守」ではなく、2番目の「破」だったりします。
さらに一気に3番目の「離」を全面に押し出して、上級者以上みたいなことができますよ、とする商材が多い。よくない。その結果、「守」はなおざりにされるのです。
だがしかし「破」や「離」だけでは単発になります。
状況が変わるとすぐに使えないスキルへと変化してしまいます。これは、わたしはもちろん読者のあなた様も思い当たる節があるのではないでしょうか。そして付け焼き刃のできあがりです。
それを変えてくれるのは「守」だと思うんですよね。
「守」は地図を提供してくれます。全体にあって今どこにいるのか、どんなスキルを使おうとしているのか、そうすることで迷子にならなくて済みます。何と失敗も教訓に変えて次のステップの助けにしてくれる。そんなイメージがあります。
だから「守」は大事なのです。
そう、やっぱりまずは基本を知ることが大事だと思うのです。
「離」のために「守破」がある
どんな物事にも自己流の領域があります。論理が100%通じることなんてないのです。
つまり、これは異論があるかもしれませんが、最終的には「離」の境地を目指すべきであり、「守破」をこなしながら「離」を意識することが必要だと思うのです。「守破」を学ぶこと自体は目的ではありません。それはステップでしかないのです。
というより、じゃないとモチベーションが続かないかもしれません。
どこまでレベルを高めるか、という状況の違いはあるのですが、世に全く同じ人はいません。その前提を理解しておくことは大事かなと。それよりも自分との対話を通じて、そのスキルをどう活かすか、そういう視点がよいと思うのです。
スピード感は柔軟に
「海月さん、基本からと言われると、すごい時間がかかって嫌なんですけど」。まあ、そうなりますよね。
わたしは、「守破離」という言葉では、この「順番の意識」が最も大事だと思っています。つまりそれぞれに費やす時間、ましてや実際の順番すら柔軟に考えてよいのではないかと。
わたしの例では、同時並行です。特に「守」には時間をかけていません。。。最初にさらっと全体を掴んで、実践に突入します、ときに基本に立ち返りつつ、トライアンドエラーを繰り返し習得しようとするようなケースが多い気がします。
じゃないと、続かない笑。あと最終的な習得の時間も非効率になってしまう感じがあります。
ただし、「守」の上に「破」があって、その先に「離」があることを常に意識します。そうやって、自分が今、どの段階のことをやろうとしているのか、どの部分にこの先習得の余地があるのかを知ろうとするのです。
知識・スキルは誰でも身につけられる
多少の差はいろいろ違いはあるかもしれませんが、知識やスキルとして名前がついて、体系化されている時点で、誰でも身につけられる類にものだと思うんですよね。
非凡な人のそれは、第六感とか霊感とか超能力とか呼ばれて形になることはありません。
地頭がわるい、センスがない、言い訳はいろいろありそうですが、現実に身につけられていないのは、きっと他の理由です。自分で壁をつくっているか、モチベーションを維持できないか。そう思うんですよね。
そして、そう思っていたほうが世界は楽しくなりますよね、きっと。
きっとこの先、いろんな能力を見聞きして、「あ、わたしもあれができるようになりたい!」と思うことがあると思うんです。それらは好きなだけ身につけられます。時間の限り。年齢すら制限だとは思いません。(いまのところ)
ドラクエでは、戦士は一生魔法を覚えられません。魔法使いは一生、剣を装備できません。でも現実世界はもっと自由なんですよね。
さあ、好きなだけスキルを身につけてみましょうかね。
おしまい
先日アメトークで「進撃の巨人」芸人をみて、思い出してました。カナダにきたときから続きが見れてないんですよね。もうすぐ終わりだそうで、日本に帰ったらすぐに読みたい!(このアニメ版のオープニングを始めてみたときの衝撃も思い出しました。心にくるんですよねー。これはこの漫画が好きだからそう感じるだけなんでしょうか。)