豪雪にマイっている北陸の皆さんのために千葉の朝をおとどけします。
今日だけじゃなく、毎日この青空です。
写真にある建設中の家は、実は僕の家です。
本当に千葉は晴れしかありません。
今となっては、遠い先祖がなぜあの雪国に住み着こうと思ったのか、疑問です。
昔は今みたいに暖房もなかったろうに。みんな太平洋側きたらよかろうに。
さて、ぼちぼち本題に入ります。
僕は、ヒトのアイデンティとは体験であると考えてきました。
その人がどのような経験をしてきたか、ですべてが決まると。
だから体験を記録した記憶こそがその人たる元素だと思っています。
ただ、ヒトは忘れていく生き物です。
すべての経験を忘れても、本当にその人は以前と同じ人といえますか?
僕は忘れたくないから記録することにしてきました。
さて話は少し変わりますがEvernote活用してます?
僕もいちおう使ってはいるのですが、いつも肌身離さないiphoneでしか
使っていないのであまり使いこなしている気はしてません。
Evernoteは最先端の外部記憶と思います。
感じるままに放りこんでおいてあとから検索、どこからでもアクセスが可能です。
手間をかけずに簡単に忘れていくという危険から脱却できるという点で画期的です。
ただ、記録という面だけをみていては不十分なのです。
こんな記事がありました。
「コンピューターの普及が記憶の外部化を可能にした時、あなたたちはその意味を、もっと真剣に考えるべきだった」
ここでやはり思い出すのは映画「攻殻機動隊」のこのセリフです。立花隆氏と映画監督の押井守氏の対談で、押井監督は記憶について次のように語ってます。
人間の記憶って実は、概ね捏造するわけですよね。(中略)
だから人間の存在の大部分が記憶に依存しているんだとすれば、自分のオリジナルみたいなものは、実は記憶それ自体にあるわけじゃなくて、記憶を捏造する過程自体にあるんじゃないかという。いろんなデータを結びつけて、あのとき自分はどうだったああだった。あの人はこういう人だったとかね。自分はその人に対してこういう感情を持っていたとか、それは10年20年経つとやっぱり都合よく変ってくるわけなんですけど、そこの変ってくるプロセス自体が実は自分なんだという。
ここで、大事なのは記録ではなく、記憶であるといっています。
記憶は捏造されていきますがその課程こそ、その人のアイデンティティなんだと。
はっきりいって、素晴らしい概念と思います。
いままで僕はどこかで記憶の変化を悪い物として捉えていた気がします。
しかしそこにこそ核心があるという。
だったらどうしていけばよいのか?
記事はこう締めくくっています。
Evernote にウェブページをクリップするとき、どんな気持ちでそれをクリップしたのか、笑っていたのか、憤っていたのか、それを書きこんでみてください。
それが数年後、Evernoteをただの「情報整理」のツールから脱皮させて、人生の断片を再生させるツールに深化させる鍵となるのではないか。私はそんな可能性を感じています。
僕のなかでは長友のインテル移籍ぐらいインパクトがあったので
記事にしてみました。
あと、最後に、真実を捏造することはよいことではないと思いますので、
訂正しておきます。冒頭の写真は僕の家ではありません。
おすまい。
なるほど~
all深イィです
これは、自分も久々にはっとさせられちゃいました…
八百長相撲なみだす
あざーっっす。
たまに自分は考えすぎて頭がおかしくなったんじゃないかと思うことがあるんですが、ずみおさんのコメントでまだ正常の域なんだと確認できます。
あー無事でよかった。
ありがとうございますーー。
そんなことより
スイマーバ買いましょう。
「そんなこと」ときました。
スイマーバおすねー、ワイフがノリ気ではないのよね。
早く子ども作って自分で買いなYO